怠惰と食事

食事というものは自分以外の誰かの為に作るものなのだと考えている。

自分だけならわざわざ手のこんだものを作る気になどなれないし、なんなら食べるということすら面倒くさい。

 

二十代の頃一人暮らしをしていたが毎日ひたすら湯豆腐を食べて暮らしていた。

もちろん湯を沸かすことも面倒なので器に豆腐と水を入れレンジでチンした湯豆腐で、無駄に醤油だけはこだわって牡蠣醤油をかけて食べていた。

金が無かったわけではないが、食へのこだわりもなかった。

見栄はあったので友人や恋人が訪れた際のみ、やたら手のこんだ見栄えする料理を作ってはいたが、食卓すら無いので床に布を敷き円になってカレーを食す、という謎の集まりになってしまったこともある。

 

今は家族がいるのだが訳あって束の間の一人暮らし中だ。

当然なにも作っていない。

家族からの連絡で食事は取っているのかと聞かれるが食べていると答えている。

嘘ではない。食パンと米は食べている。一気に五合炊いて冷凍しておいたのでしばらくは解凍するだけで食事ができるとほくそ笑んだ。のが二日前。タッパーに小分けした米はまだ一つも減っていない。炊飯器も洗っていない。

茶を沸かすことも面倒なので水かお湯を飲んでいる。もともとお湯は好きだ。お湯がいちばん好きだ。なぜ今まで茶を沸かして飲んでいたのかよくわからなくなってきた。

 

食べていなくても苦痛ではないのだが腹は減っている。

今日も教習所で終始腹が鳴っていて、同乗している教官を困惑させた。

 

不思議に思うのは、食べていなくてもトイレに行く回数は減らないということだ。

出るモノは変わらずに出る。食べている時と同じく、日に三度出るモノは出、量が減った様子もない。宿便とかいうやつなのだろうか、家族に聞いてみたいが食べていないことがバレると色々と面倒なので聞けない。

霞を食って実体が出るのだから人間の身体というものは不思議なものだ。